歴史家の作業
中公新書10冊め読了。今回のトピックだからではないが、アステカ帝国の滅亡をストレイトな「物語りの歴史」で楽しく読めました。…なぜか一文にだけ、蛍光ペンのなごり?のマーキングがある中古のほん。
あるかたは、歴史家の作業を(1)昔のひとの「手稿史料」を刊行する。(2)史料を時間軸にならべ「物語りをつくり」歴史像を復元する。(3)自らの解釈に従って個々の史料を「選び出し」歴史像を構築する。この「解釈」は、現代社会との対話のなかで育まれた問題意識と思索に基づく。…と述べています。(1)の方が単純作業で、(3)に進むほど当事者の「個性」が反映されてゆくのが判るでしょうか?
(1)は複製です。画像データ化し、まあ訳してもよい。ただ、訳をいれると主観が増すのでオリジナリティは減ずる(字形の読み取りやことば替えのま違いなど)。(2)と(3)の違いは比較的ちいさいが、上記新書の内容は前者に近いです。事実はこうだった(だろう)という時間の流れの物語りを「復元」するってこと。後者は、てっとりばやく言えば「証言の異なる」記録のどっちかを選ぶ(捨てる)こと。「おかみに巻かれろ」か「団結して一揆」かなんて立ち位置が「解釈」の土台。事実というより、歴史を使った現在的主張に比重がでてくる。また、限られた記録を例えば「社会学の視点」(解釈)で読み取って、その社会はこうだった(可能性もある)んじゃね?と構築すること。
あたまの堅い(良く言や律儀な)学者は「書いてないことは言えん!」とします。冤罪になるから(笑 宇宙人説はともかく、なんでもフリーメイソンら陰謀論に繋がるとまともに信じるユーチューブ阿呆が徘徊するこのよのなか、確かに「律義さ」は重要か(やばいやばい、わたしも「太子不在論」信奉者:笑)。ただ、「文字記録がない」を「歴史がない」に直結させる愚は犯さぬにしろ、世界史をする身としちゃ、アフリカやシベリアやオセアニアの過去についてもなにかしら知りたいわけです。
大分ながなが喋ったが、自身は「学徒」に過ぎず、「手稿史料」にアクセスする(特に金銭的)能力に缺くため、(2)(3)のほんを読んでがっくり「確度の薄まった」(2)(3)を考え、創っているに過ぎません。この(すみごこち良いが)辺鄙な土地、似たようなのは博物館のかたか、教育熱心ではない「まじめな:笑」学校の先生くらいかな。