幕府将軍のなまえから

2024年12月11日

とりあえず、武門で、徳川氏について。松平元康、いえの通字「忠」「康」。改名し①家康となる。長子信康/次子秀康/三子②秀忠、ボスのなまえ受け(「元」もそう)。松平家「忠」で「正嫡」化か。通字「家」らしいが、子息に無し。3分家のうちふたつが「頼」。秀忠の子息、③家光/忠長(おまけ保科正之)。家光は当初「家忠」案だったという。家光のこは④家綱/綱重/⑤綱吉。本すじ(あに貴)の「綱」をありがたく「うえに戴く」ので、こうなる。綱重は若く死んだので将軍襲名?できず。綱吉、大きくなれた男子なし。⑥家宣は綱重のこで、初名「綱豊」。「つな時代」が窺われる(笑  おとうとは初名「吉忠」のち清宣。家宣は50歳まで生きたが、男児が生後すぐ死んでしまい、⑦家継も将軍位に4歳でなり6歳で病没。おじさん(清宣)の登板はかなわず。清宣父子の死亡で、家康直系は滅ぶ(厳しく言えば、⑤で軽く断絶=「よこ継承」ゆえ、⑥でも軽断絶)。

⑧吉宗ってだれよ(笑  分けた「紀伊家」。家康のまご光貞(みつ時代がわかりやすね)、その子息は綱教/頼職/頼方。通字「頼」でしたね。この3番めが実は「吉宗」(時代ほどもない犬公方偏諱)になる。家康のひまごなわけです(あに貴たち、男児なく死去)。秀吉の失敗にまなんだ家康の政権安定策(分家だて)は奏功。ちなみに、直系断絶でほかふたつ(尾張家/水戸家)は将軍襲名?の点で大きく遠ざかる。こたびから、吉宗血統の近さが競われるため。で、…かれの子息は⑨家重/宗武/宗尹。家重のこは⑩家治/重好。家治の子息は家基だが、16歳のとき「なぞの急死」。家治死後、なぜか実のおとうと重好は将軍に就けなかった。かれに嗣子なく、これで吉宗直系断絶。わきみちで、宗武の子息(吉宗のまご)は治察/定国/定信。将軍のなをありがたくうえに戴いとる。これの3番めが「大した成果ない3大改革」の担いてで、やつはロイヤルファミリー?だったんす。

⑪家斉ってなにものよ。うえの「一橋門邸」に住まう宗尹、かれのこが重昌/重富/治済/治之。「宗」も「尹」も見えぬ…。はじめのふたりは越前(秀康家系)の、しまいのは筑前(黒田如水家系)の養子になる。ほほう。3番めがあとを継ぐ。この治済 の長子が家斉。兄弟など多く、家斉自身20人強の男子に恵まれたので、すべて追うのをやめます…。かれのおもだった子息、⑫家慶/斉順/斉明/斉荘。家慶のこが⑬家定/慶昌(養子つぎ=形式血統で「一橋門邸」にはいるが13歳で死去)。家定も病弱で男子なく死去、家斉直系断絶。家慶おとうと斉順の長子が初名「慶福」の⑭家茂。かれに男子なく、また軽断絶。

⑮慶喜、ようやっと来ました。かれは「一橋門邸」のあとつぎ養子なっていたが、なんと(直球ストレイトではないが初代の血脈たやさず続いていた)「水戸家」の出自なのです。あに貴の慶篤が藩を継いだ。ここら辺、元服時が「よし時代」だったのが判ります。ともかく、吉宗(紀伊家)血統を最後の最後で追い落とした、水戸家でございました。

「家」改名していないかたがた、なぜか。少しだけ臆察。…戦国期にもよくある「なか継ぎ軽視?」。「氏輝-義元-氏真」の如く、「そのむすこから」正式に継いだというかたち。綱吉はいいが、家茂はあて嵌まらん。もしかしたら将軍のおいは認可されるのか。別論としては、断絶うけ、ほかに有力候補もあるなか、前任とのちすじが遠すぎるというもの。んなら、吉宗/慶喜が「家」れないのも納得いきます。王朝交代なので。

以上、(放送でも同様の)不親切なおはなしでした。

【附記】まんなかあたりの「治察/定国/定信」、将軍のなは「治」だけで「定」は違いました。⑬とは時代がずれている。うしろ二者はどっちも別々の「松平定なんちゃら」家に養子に入ったためである。枝葉だが、あに貴が20ちょいで死んだので、養子に出されなければ「徳川氏」として将軍候補だったという(潰しの計略)。

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