景色を見たところ、自由論。
わたしは自由主義者である。
「これこれなになに」とゆう各自の自由を、許容するたちばである。ただし、「各自の自由を(ほかが)否定する」自由のみを許さない。99、残すところの1(他者からの自由否定)の自由のみ、完全に抵抗/倒壊させることを重視する。その意味で、論理的に間違っているが、「自由の恵沢」を最優先する想いからは妥当である。机上の過論で構わない、結果的自由が優先される。ちなみに、「自身の自由をみずから否定する」自由は、(その恵沢が無くなってしまう恐れがあるとしても)基本的自由として尊重される。自殺も「他者からの影響にない」限りは、自由。
中国/ルシアに対する、(ネット上うようよしている短絡的評論家とは)少し違う次元での反感。チベット/ウクライナへの侵略やウイグル人など少数者への弾圧、まさに露骨な権力行使とそれによる自由の侵害に憎しみや怒りを感ずる。ただし、両者が「隣接地域に民主主義的親米勢力の成立やアメリカ的文化の浸透をみること」を「われらが社会の自由への侵害」と捉えているのなら、そこに共感する余地はある。「合法的で穏やかな」権力行使について嫌悪感を持つのも、基本的自由だから。(露骨なかたちではない)卑怯で気色わるい「自己欲望主張する」やつを叩き潰そうとするのも、善良な市民的意志として尊重すべきである。
「景観保護条例」を立てよう、…崩れたいえは「みっともない」ので公費で解体除去したら良い、とゆう(私的に珍しい)「政治的意見」をもっている。ゆきぐにでは空き家屋(不動産)がわかり易い。積雪し、玄関さきも除雪されていない。自由主義のたちばでは「崩れた家屋をそのままにしておく」自由を、人間は有している。「崩れたいえは見っともない」とゆう考えを押し付けられ/強いられるのは、そのいえの所有者の自由への侵害になる。「労組の活動は見っともない」と勝手に判断されるのが、自由の侵害なのと同じである(はらが立つが、「忠君愛国くだらねえ」とゆう勝手判断も否定される)。「自分のけつを拭かない不動産所有者」のために税金を使うのは良くない、とゆう次元とは別のはなしである。「いえを解体する業者ばかりが得をする」とゆう次元とも違う、理論的なはなしになる。
むかしの自民党(田中角栄の流れ)の「土建政治」、そのひとつ公共事業振興(ふゆに慌てて工事を始めるの)は世界的潮流からは「ひだりな」社会主義。どかたさんの雇用を創出している。「景観保護条例」も、社会主義である。このことばはいろんな要素を含んでいるので、敢えてすっきりさせれば社会権主義となる。喋旨に照らせば、統制主義とも言える。わたしの基幹信条とは、まさに逆である。