ブッダ教の鳥瞰①(伝播)

2025年09月15日

自分用の備忘。…換算必要だったアイヌのものよりちゃちゃっと出来るやろ、と思ったのが判断過誤(笑  またまた続きます。一応、自宗派正当化の「においを除去した」ノートをめざしやす。

 a. なかアジアから中華世界へ

たびの「最初のとびら」ガンダーラ/カシミールで、ギリシア様式の影響下「ブッダ人物像の彫刻化」が始まる。内陸世界の石窟美術は「その様式の東漸(足跡)」の証拠と言える。ブッダ教(bauddha darsana)はウイグル人により信仰されるが、イスラーム化のなかで(11世紀に)霧散してしまう。ただ、中華への伝道に内陸僧侶は大きく貢献、クチャ出自のクマーラジーヴァ(kumarajiva)は華語翻訳に大活躍する(「白蓮華な優れた教え」(saddharma-pundarika-sutra)/「ヴィマラキールティが語る教え」(vimalakirti-nirdesa sutra)/「幸いどころの美風景」(sukhavati-vyuha)、ナーガールジュナ(nagarjuna)の注釈書)。

支那にはヴァジュラ乗り(vajrayana)の経典も入って、訳出されてゆく。インドから帰った玄奘(7世紀)の文献学的精緻なスートラ=テクスト翻訳は、優れた「新訳」と呼ばれた。しかし、2つの旧伝統(儒/道教)思想のなかで「ブッダ教を(新たしく)再解釈する」作業が進んでゆくことになった。①シャカの後継者(bodhisattva:華訳「菩薩」)となるマイトゥレヤ(maitreya:「弥勒」)への信仰が、民衆に広まる。②慧遠は「西方極楽に信者を迎え受ける」アミターバ(amitabha:「阿弥陀仏」)/「浄土」信仰を開始。③智顗は「白蓮華な優れたテクスト(華訳:法華経) こそがブッダの教えの頂点」として、その中華解釈を推進。④法蔵は「さまざまなはなで飾られた教え」(華訳:華厳経)に拠って「連結構成された宇宙」観を築いた。

インド人の宗教感覚(基本的関心事)の多くは、華人にとって気に掛ける事柄ではなかった。このため「違うことがら」が問題視されてゆく。中華仏教の代表と見做されるのが「禅」現象(天台宗/密教が続く)で、①基本問題が「だれがブッダになれるのか」(=ブッダの本質を具えるものはだれか)となり、真説(dharma)と教団(samgha)は等閑視された。②禅師は、教義が雑多で/相互に食い違い、推奨される瞑想儀礼も煩雑/多様に過ぎる大乗経典群を徹底拒否する(伝統との絶縁=真の仏教を経典/教え/ことば/ブッダを超越したものであるとする)(9世紀末『臨済録』が代表典籍)。

 b. ティベトやみなみアジア

ティベトには、7世紀に中華仏教(禅系教義)とブッダ教が入るが、のちに後者が採用される。王権が組織的に導入に関与するなか、豪族=伝統信仰(「ボン教」)は危惧し「破仏」を敢行。12世紀に復興が始まり、ミラレパはタントラ(入門儀礼/密教テクスト)を学ぶ。モンゴル帝国期にサキャ派が台頭(戒律重視)、その後に「古派」ニンマ派が、埋蔵法典(gter ma)手法で勢力を伸ばした。その密教は、深い洞察(prajna)/空しさ(sunyata )を完全に極め超能力を持つ成就者(siddha)を模範とし、修行結果を待望したり戒律(性的禁欲)を緩めたりする点を特徴とする。結果、僧の妻帯が増え、出家/在家の境界が薄れる。この無軌道実践への反動が「清廉」ゲルク派で、かれらは教団規律を守り、厳しく規定された学習過程を経ないと高度修行段階に至れないと説いた。初学者は論理学/文法/教義基礎から学び始め、12年以上かけて博士(geshe)位に辿りつく。17世紀に「5代」「大海の師」(taa-la'i bla-ma)はティベト統治者となるが、シガツェのタシルンポ寺に精神的権威者としての「大いなる学匠」(pan chen bla ma :阿弥陀仏の化身系譜)も確立する。

この「化身」(sprul sku)概念/制度はひとびとを魅了し、モンゴルでも寺院長が化身で継承されるようになる。ガンデン寺院の「活仏」系譜がそれである。そののち、最後に満洲人に広まりペキン雍和宮がひとつの中心となった。

ブッダ教「東伝」の主要対抗潮流「自己解脱派」(sravakayana)はインドから消え、東南アジアで退廃したマハー乗り(mahayana)を克服する一連改革として(比較的新しい時代に)再興した。テーラの教え(theravada)は、①パーリ語の三経典群(tri-pitaka)を基準とし、②その外面的保守性から起源直結の唯一の生きたブッダ教伝統として残り、③その語はアショーカ法勅方言にやや近い筆記用古語だった。また、4圏(スリランカ/ビルマ/タイ/ラオス文化圏)に広がっている。文語パーリは共通だが各地で筆記文字は多様、さらに発音変容も激しく、「覚りしもの」もボダー/プッター/プトゥとなっている。「本土」では、①仏教議に発想を得た伝統インド宗教が激しい論争を開始した、②イスラームの浸透により施設破壊がなされた、点が消滅要因となった。そこでは歴史存在としてのブッダは「ヴィシュヌ神の10変化のひとつ」とされ、伝統信仰に融合された。

インドゥネスィア。クメール文明繁栄期の主流は、バラモン教の影響が強い「マハー乗りの特殊形」だった。しかし、南下したタイ人が12世紀に半島の新勢力となると、テーラの教えが採用される。同信仰の3圏では、(僧侶招聘など)継続交流関係が保たれていた。インドネシアでもボロブドゥール(9世紀)など密教のいろ濃いマハー乗りブッダ教が栄えていたが、ジャワ島でのヒンドゥーとの抗争、のちイスラームの確立により消滅した(ヒンドゥーもバリ島のみに残存)。

 c. 朝鮮から日本へ

あまたの朝鮮僧が渡華し仏教を学んだ。一方で自立意識もあり、最盛期の高麗時代に禅の知訥は大陸に渡らずに曹渓宗を創設した。王朝支配層は儒教信奉だったため仏教は統制され、辺鄙な地方での実践活動(非学問)が中心となった。

列島においては、奈良時代に文化交流は朝鮮半島のみだったものが大陸比重へと移り変わる。東大寺(華厳宗)、唐招提寺(戒壇院で厳格な戒律の初めての授与)、南都六宗。それらに対抗するかたちで、平安期に渡唐勉学が進む。最澄は帰郷後、①『法華経』修行の中心化、②鑑真の「正式の完璧な」具足戒を否定、③独自の授戒「菩薩戒」を創設。本来の「具足のうえ菩薩の受戒」が破壊され、比丘らで構成されべき教団(サンガ)は存在しなくなっていった。かれの死の直後、公式に比叡山の戒壇が許される(その法要は荘厳)。空海は唐で「当時最新の」密教を学び伝える。当時に開示された「両界曼荼羅」などの無尽の美しさは、魔術的要素と相まって朝廷貴族を深く魅了した。最澄の後継者(円仁/円珍)は渡華し密教典籍を求め、学究教義に密教を並ばせた「台密」をうちたてる。

8世紀以降(従前の貴族向き、ではなく)民衆に働きかける行基などの僧が現われる。伝説的役行者を祖と仰ぐ山伏は、やまに籠り最秘教修行に励む呪術仏僧である。10世紀末から「教えを簡潔化し修行を広める」ことをむねとした潮流が出現。①末法思想に基づく浄土系宗派。時代経過で「シャカ教義を理解実践できるものが居なくなる」時代が到来し「阿弥陀仏の慈悲にすがるしか救済の道なし」と主張する。親鸞は「そのなを唱える(念仏)」修行のみが唯一有効とした。②天台出自の日蓮は救済への独自抜本方法を提唱、全面依拠すべき『法華経』の題名を唱えるだけで良しとする。③中華起源の禅は天台出自の2僧により分岐し、臨済宗(不合理不可解の「なぞ(公案)」を実践し理性を沈黙させることで悟りを得る)と曹洞宗(坐禅のみ唯一有効の修行)である。実際、大蔵経全体を読めるものはひと握りの僧のみだったので、①大蔵経に説かれる複雑な教義/実践/儀式を抜本的単純化し、②武士/民衆らに「自らが有効な仏教実践をしている」という気持ちを抱かせた、ところが特筆すべき点だと言える。

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