「暑がり」
「暑いのがにがて」。自己の伝達で安易にこー言っていたのだが、本から「リビア砂漠じゃあせはかかない…すぐに蒸発して白いこなが付着するだけだ」なる情報を学び、短考しました。
「いつも半そで」と笑い交じりに評されるわたしなんで、暑がりなのは事実(「代謝が良い」らしい)。暑いといろいろ不快で終局生産性も落ちるのだが、一番いやなのは、実は「あせをかくこと」とその所産なのかも知らんと思い至る。あせばむと、かみを湿すので書きものができない。シャツが湿って、からだもあせ臭い。(室内作業の視点で申しわけない)…すぐに風呂でさっぱりできれば良いが、そうもいかん。
となると、この列島生活空間では(熱い)→(あせをかく)過程がすぐに起こる、換言すると等式状態なので、わたしの最初の言いも問題なかったのだが、(「がち」乾燥の)リビア砂漠ではま違った表現になるかも知らんのである。そこでは、大いに暑がるだろが存外不快感は低いかも…と空想するわけだ。
放送でよく、考古学のことをざっくり「歴史の理科」と言ってきました。うえに照らすと、これも少し細かい区わけをしなけりゃならんのかも、と反省する。というのも、高校で「河岸段丘のできかた」といった(わたしが全くおもしろいと感じれぬ)内容、いわゆる自然地理学を学ぶ。中学までの地誌的内容を学んできたみからすれば「理科/地学じゃないの?」と感ずるわけである。非常に似ている。んでは、両者の違い(「社会」と「理科」に選別される要因)はなんなのか。
ひとつの答えは「個性を要するか」、個別性/一般性どっちを追究するかである。同じ「三角洲」をとりあげても、「タイのメコンがわの」といった固有名詞を意識するのが社会(自然地理)であり、普遍/理念的かたちとしてのそれを考える(固有名詞を捨象する)のが理科(地学)である。該当地形が地球上に一箇所しか無かったら、ちょっと困るが(笑
散らかったので話題を纏めると、学びの内容を「対象と目的」「手法」に分けてみると少し丁寧になるのかなと。考古学は、三内丸山のいついつの時代…を想定し追い求める点で「個別性」を大事にしとる。しかし分析のやりかたは「発掘物を観察/分類する」理系のものだろう。(わたしが能力不足で不能な)古文書読解は、ものとしての古文書よりもそこに記された情報を処理しようとする点で文系だ(追究しとるのが「個別性」なのは言うまでもない)。
さて、大上段風の喋りだったが、まだ深く考えられていない学びの内容もありやす。疲れたので、以下について「対象と目的」は個性を必要としているか、「手法」は文系/理系どちらかを考えてみて下さい(笑 ①政治学/経済学/社会学 ②哲学/倫理学/宗教学 ③「発展段階説」といった「歴史法則」なるものの探究